1.道祖神 2.どんど焼き 3.どんど焼きの現代的意義 4.石尊山と大山講 1.道祖神(どうそじん) 道祖神は日本の民間信仰の1つである。聚落の辻(道路の分かれ道)や集落の境などに石碑、丸石、男女和合の神像などの石造物が祭られて、サヘノカミまたは道ろく神などとも呼ばれてきた。旅行安全、防災、縁結び、子供の神さまとして民間信仰の対象となっている。一般的には、道祖神は、道行く人をわざわいから守り、その地域の村人やこどもたちを守り、悪疫悪霊に立ち向かい、愛をはぐくむ神様として祀られている。。 「日本書紀」では、サヘノカミをフナド(岐)と現して、外界から押し寄せてくる疫病の魔障を防ぐものと書いている。また道祖神の石碑には台石や表石に天鈿女命(あまのうずめのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)と記して祀っているところもある。猿田彦命は体が大きく、鼻が高く、口尻の赤い神。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)降臨のとき、天鈿女命とともに高千穂峰へ案内した。神々の旅の先導を務めた故事から、中世以降、道祖神、庚申と習合し、道案内の神・旅の守護神ともなった。 道祖神は全国的に小正月に祭られ、ドンド焼きが行われる。ドンド焼きの火であぶった焼きだんごを食べれば、風邪や歯痛を病まぬとされ、焼いた灰を用いれば農作物の悪虫害の防ぐなどとされ、多様な信仰に発展している。 山梨県では道祖神体に丸石を祭ったものが多く、他県に比べ特に異なっている。山梨市七日市場にある道祖神は、山梨県内でいちばん大きいと言われ、直径110cm、高さ95cmの安山岩自然石が安置されている。 山梨市を含む東山梨地方では昭和40年代に丸石道祖神が206力所、東八代地方には丸石道祖神が138カ所あったとされる。(故中沢厚著「山梨県の道祖神」による)。このほか石棒(男根石)を祭ったものも東八代地方に多い。丸石、石棒は道祖神とその土地の原始信仰との結びつきがうかがえる 山梨百科事典によると、石のほこら型道祖神では記銘のあるもののうち、最も古く歴史的なものは山梨市堀之内にあるもので、「奉納万治三庚子年二月日」と刻まれているという。1660年の建祠(し)である。 長野県では、路傍に男女双体神が握手したり肩を寄せ合った形の男女和合の道祖神があり、縁結び信仰あるいは男女和合の神様である。 山梨百科事典によると、珍しい彫刻では面は猿めいているが、背に甲らがあり、甲らの上に四角の三方をのせ三方には丸石5個を供えた道祖神が甲府市平瀬町にある。また、木祠では保存が難しく数は少ないが社殿造りの彫刻に優れたものがある。甲府市御岳町金桜神社参道入り口に高さ1m余の屋根は銅板ぶきにした道祖神がある。これと似た流れ造りの屋根ではあるが桧皮ぶきとした道祖神が甲府市東光寺町山八幡宮の境内に鎮座している。同社表に2本の石塔篭が立ち、1780(安永9)年9月6日に建てたことが記されている。甲府中央部の道祖神は旧柳町八日町など江戸末期は豪華な浮世絵道祖神幕を張りめぐらした道祖神祭りが行われたところだが1972(明治5)年の改革で禁止となり片付けられてしまった。 この中で旧魚町(中央三丁目)に木造道祖神祠が残っている。高さ118cm、奥行57cm、屋根は桧皮ぶきの流れ造り社殿で、向拝の木鼻の形が優れ、江戸時代の手法を残している。 ページトップへ 2.どんど焼き(どんどやき) 1月14,15日の小正月の道祖神祭行事をいう。中世の宮中行事左義長が起源と云われる。地域の各戸から、正月の門松、ササ竹、しめ飾りなどを集め、14日夜、道祖神場で燃す。その燃える火を形容してどんど焼き、どんどん焼きとも地方的に呼び方がある。 火は古代から神聖視され、その威力に神力を信じてきたので、今でもどんど焼きの火で、上新粉(米の粉)で作った団子を焼いて食べるとかぜをひかないと言われる。またこの火のあおりで、子供たちは書きぞめの紙を空へ上げるが、高く上がれば書道の手が上がる−というならわしが各地で続けられている。 山梨県内では、どんど焼きは青年や子供らの正月行事として続けられてきている。地縁集団である組を単位として、どんど焼きの直前1年以内に生まれた子供が仲間入り(あるいは氏子入り)する最初の行事としてどんど焼きを行う。山梨市では、道祖神祭りの一環として、旧正月に氏子入りから14歳までの子供たちが当番の家に集まり,食事をともにする。筆者の地域である山梨市下井尻西上組では、正月8日に行い、カレーライスに味噌汁、漬物などのメニューである。この地域では、「お日待ち」といい、大人も一緒に道祖神に供えた清酒を「御神酒」として、組内の夫婦揃って酒食をともにする。 どんど焼きは、山梨市内では、道祖神場に子供たちが作ったわら小屋を焼く、火の祭典として行われるのが通例である。昭和30年代までは、小屋の内部に囲炉裏を切って、餅を焼いて食べたり、甘酒を飲んだりする遊びの部屋でもあった。しかし、昭和50年代以降の稲作転換でわらの確保が難しく,その形態は変化している。 山梨市の隣りである塩山市や牧丘町ではスギ、ヒノキで道祖神に小屋架けし、わらで大きな男根をつくった小屋をお仮屋(おかりや)と呼んでいる。わら小屋が作られるのは、以前に稲作地帯であったなごりである。甲府小松町ではオチョウヤと言い、スギの枝を柱に、わらで御殿ふうのお宮を13日に作り上げ、14日夜にこれを燃す。御殿を作る妙技は、若者が少なくなって継承者は今はいない。 富士川、戸川沿岸の鰍沢、青柳では河原へ、山から丸太を切って来てこれをヤグラに組み、高さ10?に及ぶものを建て、周囲はマツやスギの葉で包み、頂上にはしめやご幣、ダルマなどをつけ、中へひと晩泊まれるような部屋も作って、14日には豪勢に燃やしたが、太平洋戦争後防火思想普及で小規模となり、下流の身延町下山付近では夜を廃し15日朝、川原へ集めた松飾りを焼くように変わってきている。 元来、道祖神は道の神であり、境界を守るものとしてその境から悪病、悪魔のはいり込むのを防いだ神であったが、それがいろいろの信仰を習合し、増穂町上七尾では19歳と25歳のものが厄年払いといい神酒を供え、「高砂」のうたいが終わってどんど焼きをしており、どんど焼きのあとの灰を、芦安村小曽利では田畑にまくとその年の作柄もよいといい、また峡南の方ではこの灰を持って帰って家の周囲にまけば、ヘビやムカデを防ぎ、峡東では15日のかゆ炊きの煮汁に灰を入れて練ってまき、虫よけ封じの唱えごともいう。農耕の予祝と呪(まじない)が入り組んだ形である。 小正月が旧暦では年の始まりであり、五穀、養蚕の予祝占い、それに家内安全を加えたのが道祖神の習合ともいえよう。<参考文献:山梨百科事典> ページトップへ 3.どんど焼きの現代的意義 山梨県のどんど焼きを地域の子供の健全育成事業としてみたとき、きわめて有意義な内容を含んだイベントということができる。 山梨市下井尻西上組の道祖神行事日程は次のように行われた。(平成13年)
◆1月4日 午前9時集合 午前、午後お小屋作り
ここでは、どんど焼き行事は、まず子供が中心となったオコヤ作りから始まる。1月4日、子供達は、地域の各戸からわら、竹などの材料をもらって回る作業から始める。子供たちは、青竹で柱を組み、棟を上げ、青竹を細く割って、わらを挟み、壁を作り、屋根架けする。鋸、鉈を使いこなす本格的な工作体験であり、神がおりたまう小屋「おこや」を作らせる神事なのである。大人がついて指導するが、あくまでおこやを作り上げるのは子供達の役目である。物心ついてから14才まで、毎年続けられるオコヤ作りにより、地域の子供達は協力して、もの作りを達成することの楽しみを原体験として、体に覚え込んでいく。昭和40年代頃まで、冬の子供達の遊びは、このオコヤがよりどころとなっていた。 4.石尊山・大山講(せきそんさん・おおやまこう) 干天が続く時、関東各国の農民らは代表者を選んで雨ごい祈願に相模国(神奈川県伊勢原市内)の標高1,246mの大山へ出向いた。犬山は中世のころ修験者らが修行道場にした山で別名に雨降山(あふりさん)とも呼ばれ降雨の御利益があるという。中腹にある大山寺は本尊が不動妙王で石尊である。また阿夫利神社があって降雨祈願はこの神社にお参りして神札を受ける。祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)。明治維新の神仏分離によって大山寺と神社は分けられたが、以前は大山講といえば両方へお参りすることになっていた。 山梨百科事典によると,山梨県での大山講は甲府善光寺の山門前の故志村伝吉が先達となって結成したのが1664(寛文4)年である。阿夫利神社と大きく書いた掛け軸が同家に伝わっている。毎年本山の例祭に合わせて6月27日から7月17日までの間に善光寺町内の高倉川上流で水ごりをとった。ここには「大山石尊社祈願所」と刻字した石柱を立てた川瀬があり清らかな所である。今は水ごりの場所まで登ることはしなくなったが、志村家に集まっては掛け軸の前で鈴を鳴らし講の礼拝行事だけは継続している。 石尊には1年間のけがれをはらう水ごりのほかに水防祈願行事があり相川、濁川、貢川の水辺地域には14基の石尊碑や石祠があり記銘を見れば水害のあった翌年の建立が多い。石和、黒駒、国玉では若者らがろうそくをともして川中に入り「六根清浄」を繰り返し唱える「みそぎ行」が戦前には行われていたが、石和、国玉ではすでに絶えた。御坂町下黒駒では戦後も続け、1988(昭和63)年も8月23日の天神社祭りに若者らが堀に入って水ごりの六根清浄行事につとめたという。 筆者の居住する山梨市下井尻西上組では、毎年3月下旬に石尊山の祭典を行う。各戸から米を拠出し、各戸の主婦が総出で握り飯を作り,石尊にお神酒とともに備える。この石尊は、高さ1.2m、幅60cmほどの自然石である。祭典の祈願行事では,組中の大人が詣でて、「懺悔懺悔六根清浄〜帰命頂礼」の呪文を唱える。その後,当番の家で、酒食をともにしながら、懇談して散会するのが常である。 石尊山(せきそんさん) 山梨県内各地に勧請されているが、その形態や祭りの方法などさまざまである。 阿夫利は雨降の略語ともいわれ、農民の雨ごい信仰である。戦前は犬山講、石尊講が結成され、神奈川県伊勢原町の大山へ代参したが今は下火となる。石尊山は池の中や水辺に祭ることが多く、塚の上、神社の境内、その他など。以前には、祭りではふんどし一つとなり、入水してオコリをとる農民たちの姿もあったという。オコリのじゅ文は伝承のため各地でくずれ変形している。これを正確に記すと 「懺悔懺悔、六根清浄、大峰八大金剛童子、大山大聖不動明王、石尊大権現、大天狗小天狗、哀愍納受、一律礼拝、帰命頂礼」(ざんげざんげ ろっこんしょうじょう おおみねはちだいこんごうどうじ おおやまたいしょうふどうみょうおう せきそんだいごんげん だいてんぐしょうてんぐ あいみんのうじゅ いちりつらいはい きみょうちょうらい)六根とは仏語で眼・耳・鼻・舌・身・意の称である。 石尊参り 神奈川県伊勢原市の北西方にある大山山中、大山阿夫利(あふり)神社に参詣する行事。大山山頂の奇岩は、古来石尊様と崇められ、大山阿夫利神社の本尊の本尊になっている。祭神は大山山中は雨が多く、雨降(あふり)山と言われる。これにより、古来から農民には、雨ごい、水利、稲作、農業の守護神、漁民の間では、大漁祈願の対象として崇められた。江戸町民の間では、治病など現世利益の神として繁盛した。そして江戸をはじめ緒地方に大山講が設けられ、江戸中期、宝暦年間より盛行した。春、夏には白衣姿の講中登山者が大山に集まり、今も続けられているという。 ページトップへ |