第二節 原史時代
原史時代は、「古墳時代」とも云われる。この時代の文化遺物が、主に古墳をめぐつて考察されてきたからである。
日下部町の古墳文化は、実証的には何も遺されていない。然し、笛吹川東津の丘陵台地をめぐつて、加納岩・松里・後屋敷などには、今も古墳の存在が認められるから、当然その地続きとしての日下部の原野にも、幾つかの古墳は点在していたものと思われる。それに、古墳文化に引続いた奈良朝頃、本町には七日市場や、八日市場などに、いわゆる上代の聚落遺跡が、相当栄えていたのであるから、当然これ等古墳群と結び合わせて、その時代まで遡つて氏族の動きが、何筆.何等かの形式で残されていてよい筈である。從つて本町の場合、原史時代の文化があるかないかと云う事よりも、如何なる氏族が、原史時代のいつ頃本町周辺に來住し繁栄していたかと云う問題になる訳である。
これ等を裏付けする資料として、まづ古墳分布の状況を眺め、叉古い記録をひもといてみると、白幡明神(誉田別神社)の旧社記には、「白幡明神ノ後辺中ニハ古塚アリ」と、記録されてあり、又「甲斐の落葉」は、水の宮明神の境内中にあるのは古墳ではないか?と、注目すべき事を傳えている。更に八日市場の古い絵図には「古屋要氏藏)立石に富士塚と会う相当高い塚のあつた事などか描かれ、七日市場の古い絵図にも(雨宮ちゑ子氏藏)笛吹川畔に、古塚のあつた様子が遺されている。富士塚と云う名称には、一応の疑問を抱くとしてもこのような古い記録や、絵図などからおして、明治初年頃に入るまで、塚と名づけられたものは、小原・八日市場・七日市場・下井尻周辺にかけて、相当あつた事が窺がわれるのである。
これ等の塚群が、厳密に云つて、どれだけ古墳に属したかは不明であるが、現存する五基ばかりの塚を検討した結果、惜しくも開墾による礫石の小山か 或は経塚であつて、その頂きに旧祠が祀つてある模様を見ると、今日まで遺されているこれ等の塚は、下井尻・七日市場などの明細帳に書かれている行人塚・山伏塚・庚申塚等と云われる後世の信仰にもとづいた塚の一種が遺されたもので加納岩・松里などの古墳群などに関聯を有するものが一つも遺されていない事は注目すべき現象といえよう。
地区別 | 小字 | 塚名 | 内容 | 現況 | 備考 |
小原西 | 宮久保 | 不明 | 円墳か? | 僅かに石室らしき もの残る | 二つとも水の宮神社境内 |
同 | 同 | 同 | 同 | 天井石らしきもの 二枚程残る | |
同 | 同 | 同 | 同 | 痕跡なし | 現地方事務所前。前記二基よりも大。 甲斐の落葉に指摘せるものこれか? |
小原東 | 立石 | 富士塚 | 不明 | 僅かに痕跡残る | |
同 | 間反保 | 不明 | 経塚なりし と云う | 痕跡なし | 梅天神前に三基ありしと云うが、 三基とも経塚なるや不明 |
七日市場 | 西原 | 経塚 | 経文石出土 | 封土残る、現存 | 昭和二三年五月発掘す |
同 | 立石 | 行人塚 | 不明 | 痕跡なし | |
同 | 塚越 | 三峰塚 | 礫石の山? | 現存 | 頂に三峰社を祀る |
同 | 八升蒔 | 山伏塚 | 礫石の山 | 現存 | 頂に弁天を祀る |
下井尻 | 狐塚 | 稲荷塚 | 礫石の山? | 現存 | 頂に稲荷塚を祀る |
同 | 相畑 | 天白さん | 経塚。経文 石出土 | 現存 | 頂に天白さんを祀る |
それ故本町には、一見して古墳と名づけられるものは、既に一基も存在せず、僅かに「甲斐の落葉」に指摘される、水の宮神社の境内のものに疑問が投げかけられるのみである。
水の宮神社の境内には古老の云い傳えによると、東山梨地方事務所の前庭に丁度現在の廣場の範囲位の大きな塚があつたと云われる。帷惜しい事に明治初年取壊されてしまつたと云うが、これによれば、甲斐の落葉が「古墳ではないか? 」と疑問を投げかけている塚はこの塚を指しているのであり、又現在同神社の境内には尚二基小規模の古墳が存在したものと考えられる。遺憾ながら、一基は石槨らしき石が僅かに形態を残しているのみであり、他は最近取壊して跡方もない。取壊された塚は遺物の出土はなかつたが、天井石らしい平たい大石が五箇程出土した。この様にみると、水の宮神社の境内とその附近には、過去には幾つかの古墳が点在したものと思われる。
注目すべきは、下井尻の村田五郎兵衛氏が七日市場字沓抜で、曲玉一個を畑中より採集し、又雲光寺裏手の小高い畑の中で小玉(ヒスイ)一個を採集した者もある。これはこの周辺に、古墳がもしくはそれと同時代の遺跡が存在したのではないかと云う一応の疑問にもなる訳である。その曲玉などの出土した地理的状況は、附近に塚越などと云う地名も存し、叉電光寺裏手の方は、当時、土師期の頃重要な水田地帯をなしていたと推定される下井尻の中心部を前景にして、やゝ小高い処に当るので、古墳築造にはあながち否定出来ない場所である。白幡明神旧社記の「古塚アリ」も、或はこれ等の地辺を指したのではないかと考えられる。
いづれにせよ加納岩・松里などの比較的本町の近距離に古墳の点在する状況よりして、本町に必らずしも,その存在を考えなくても好い訳であるが、もし本町に古墳が築造されてあつたにしても、それは、古墳時代の後期もしくは最末期までの間の遺構を傳えるいわゆる笛吹川東岸の、丘陵台地上の古墳群の一環である事は、容易に想定出來るのである。そして、これ等の状況は、岡部附近の大小様々の古墳群の流れをくむものではないかと考えられ、一般に散在的である峡東附近の古墳群の中からも微妙ながら其処に、原始國家への移行を傳える新しい開拓の模様も想定出来よう。
又、その頃には、西日本の各地に原始小國家が生まれ、各民族の動きなども活溌であつた。近くは隣縣の信濃なども、こうした動きの中にあつた事が、種々な点から認められている。
わが甲斐の国も、地理的に考えて、当然そうした影響下にあつたのではないかと想像される。叉、木縣の場合にはこれを文献から見ると、大和の権勢も急に増大した景行天真の四十年、大和武尊が甲斐に入つて酒折に駐せられた事が古事記や書紀に見えている。いろいろな附会はあるにしても、尊の足跡と云うものが大なれ、小なれ各地に革新の息吹きとなり、今まで不鮮明であつた甲斐の歴史が、文献や、口傳の中に、急に原始國家への胎動を見せ、兎も角も一応新しい歴史への起点となつた事は拾いあげられてよく、其処から叉新しい角度えの検討と、特にその頃の民族の動きなどは注目されねばならない。これを日下部周辺に眺めてみると、特に加納岩にはこの頃の口碑や傳説が多い事で注目され、本町の場合には七日子神社(貢明神)の旧社記に
「日本武尊当國へ入リタマイ当社二駐マス時國民尊へ貢ヲ奉ケル傳來世ニイチジルキ所ナリ依テココニ貢所ヲ置カレタルニヨリ貢明神ト称奉…」
と記載している。種々の疑点がはさまれている日本武尊をめぐつての附会多い傳説のうちの一つではあるが「貢所ヲ置カレ…云々」は、思うに、この辺りに既に聚落が発生しており、古墳時代以降(恐らく相当降つてであろうが)朝貢に関する集積所(当時の役所)のようなものがあつたと考える事も出來る訳である。それに七日子神前(貢明神)は式内社ではないが、古來から朝廷に七彦粥の米を貢した歴史を持つており、この地方の神社中でも割に信の置ける古い文献なども種々残されている神社である。(七日子神社の項参照)
又式内社大井俣神社は往古「いまた」の地に鎮座していたと傳えられるが、その旧地は、ほゞ現在の字今田附近にあつたものと推定されるので、七日子神社などと共に強力な氏族がこれを奉齋していたものであろう。
甲斐國志はこの点で、「大井トハ続日本紀ニ延暦元年山梨郡人鞠部等改(二)本姓(一)爲(二)大井(一)トアリ延喜式二所(レ)載ノ大井俣神社モ在(二)本郡(一)旧キ地名ニテ姓氏ニ称スナラン」
と記載している。又小原村東分の明細帳には字今田の事を「申酉の方笛吹川端に字井俣と申所御座候其所に古屋敷と申來候田地有之候土手様残御座候此辺大井俣神前旧地と申傳候古屋敷は古社之誤傳には無之候載哉」と記してあるが今それ以上は詳らかでない。
さて、以上の諸点を考える時、上代の社会構成は、氏族が神社を中心に移住発展するものであると云われているから、そこに何等か大和の國に関係を有する氏族が、原史時代の何時頃かこの日下部の地辺に由來したものであると考える事が出來る。かくてこの間の事情を追究してみると、太田亮氏の「甲斐」は
「古事記開化段に沙本毘古王者、日下部連、甲斐國造之祖と見ゆ、山梨郡に日下部村あり。國造本紀には、甲斐國造、纏向日代朝世、狭穂彦王三世孫臣知津彦公、此子監海足尼、定(二)国造(一)と記載す・・・云々」
と云い、結局狭穂彦の後裔が甲斐國造となつた事を認め、漠然と日下部村をあげている。由來幾多の書物は.この甲斐の国造をめぐつて考察し、國志は右の國造本記を採つて塩海宿称を、甲斐初代の國造としている。叉古事記をそのまゝ採れば沙本毘古王が日下部蓮として甲斐の國造に任命された様にも解釈できるが、いづれにせよ右の如く、沙本毘古王の一統が原史時代甲斐に入つた事だけは、正しいと見なされている訳である。
さてそこで、この日下部蓮の一統と日下部町の関係であるが、或識者は右の結果をもつて、たゞちに本町名の「日下部」を甲斐國造に結びつけ、こゝに日下部氏が住んだのだと云つているが、実はこの日下都と云う地名曲來は、明治八年旧村合併の際藤村縣令が名付けたものであることが、漠然と知られている以外、如何なる文献を基礎としているかゞ不明である。それ故甲斐の國造族と「日下部」の結びつきは、名付けた根拠が判らないだけに疑問がある訳である。
察するにこの地名曲來は、加納岩方面に於ける日本武尊の附会傳説と同様に、日下部の王子が、この辺に住まつたと云う遠い傳説に起因するらしい。それと共に又、一、二の古老の云傳えによれば、「…昔、小原西と小原東の両村が争つていた頃、田安の陣屋に日下部某なる役人がいて、その調停に尽力し、村民からも感謝され、結局明治八年旧村合併に当つては、その姓をとつて日下部と名づけた」と云つているのである。
かくて様々の説をめぐつて、本町の原史時代の文化は、極めて漠然とした経緯を示しているに過ぎない。然し結局は附会多い傳説を抜きにしても、日下部上代聚落遺跡の現扶や、或は貢明神をめぐつての諸説、正倉院御物中の白の※(し UNICODE 7D41)等は、原史氏族の強力な基盤に立つて始めて生れてくるものであり、其処に於て、甲斐の國造族と云う氏族との結びつきは暫く置くとしても、それに匹敵する強力な氏族が、或時期この地方に入つてきたのではあるまいかと云う想像もあながち否定出來なくなる訳である。
これをこの時代の出土遺物の面から見ると、本町にあつては余りにその遺跡に乏しい。信州平出遺跡の場合などには、明かに彌生期の末期であるべき和泉期以降の遺物が出土しているのに反して、日下部遺跡にはこうした時代と関聯を持つている遺物はまだ発見されていないのである。或は下井尻、小原などから発見された遺物が、もつと廣範囲に究明されたたらばこの間の事情を解く事が出來るかも知れない。注目すべきは塩山町下於曾方面から鴨居寺にかけて,ぼゞこの時代層に編入されても好いと思われる遺物が出士しており、高杯や塗朱品なども多いのである。そしてこゝには日下部遺跡と同時代頃の遺跡も豊富に存在し、於曾郷や、塩郷などと云われる地域の裏付けになつているので、当然この方面との関聯はあつてよく、小原・下井尻の遺跡は早急に究明されなければならない。