人間の生活は文化を生み、文化はまた人間生活を規制して、その社会現象はいよいよ複雑多岐に亘つて展開されていく。人間はまた必ず故郷をもつている、故郷の揺籃の中で成長し、故郷を足懸りとして夢をえがき、郷土に立ち、異郷に生き、一歩一歩建設の人生行路を創生していくのである。
叉、國家には國家としての、地方には地方としての政治、経済、文化に交渉をもち、地域には地域社会としての地理的條件と、自然的影響と、慣習的傳統の中に於て、中央地方の夫々の交渉の下に、影響しあい脈絡をもちながら、文化をつくり歴史を創っていくのである。
人類歴史の上から見る有史以前の変転常なき地殻の変動と、大白然の急変等の申に於ての原始生活については殆んど之を試る術もないが、わが日本にあっては約一万年前後とされる新石器時代文化の発生によつて、石器・土器・骨製器具等を使用したことが推定され、その後の発達にともない、樹上・地上・水上等に居住を定めた上、狩猟、漁撈をし、そのかたわら素朴ながら原始農耕をしたらしいことが、各種の出土品等によって次第に明らかにされている。
口碑による甲府盆地一帯の湖沼時代と、笛吹川の大氾濫による、扇状地の形成との時代に於て、日下部が如何なる形に置かれたかは殆んど想像がつかない。
峡東文化の地理的好條件下にある日下部の我々の祖先の残した物質的精神的な文化遺産を偲び、温故知新の道に生きて・將來への飛躍を待たんとするものである。
日下部地域に於ける先史時代以後の原住民族の生活様式や根拠については、從來漠然としていたが、最近になつて考古学の研究発達と、斯の道への研究者の計画的な学術的発掘調査研究によつて次第に解明されてきた。
即ち我々の祖先は笛吹川断岸地帯から時代の推移に件って、順次東の方に居住地を移したのであつて、理在、町内全地域に亘つてその生活の跡を残している。
出土品の編年分類から眺めると、縄文式時代、彌生式時代、土師器時代と夫々の特質を表わしている遺物並遺蹟が存在しているので、佛教文化時代から公家文化時代(平安時代)の初期頃までの生活根拠を残している。
一方神社の存立関係からみると、遠く奈良時代からの由緒を持つものがあり、叉特殊な宗教的思想から祀られたものと思われる小祠が、町内到る処に残存しており、中世的村落の発祥を物誌つている。
武家文化時代の初めである鎌倉時代には、甲斐源氏の一族、安田遠江守義定の館が、今の保健所前あたりにあり、下井尻雲光寺に義定の供養塔が残つていることなどから照合すると、既にその時代相当の発展をしておつたことが肯定出來る。
武田氏時代には、地理的好條仰の下に、七日市場、八日市場と相隣りしての地方交易市場が設定されて、峡東地方としての諸物資の集散地として、繁栄して來た事は否定できない事実であつて、それが徳川時代の終期頃まで継承されていた。
國民文化建設時代としての明治維新を迎えてからは、時代感覚の息吹きの下に多角的に而も急速に各種の施策が講ぜられた。即ち明治五年に区制発布にともない、旧村は共に第十二区に属し、明治八年二月三日、愈々小原村西分・小原村東分・七日市場村.下井尻村の旧村は合併となり、こゝに日下部村が誕生した訳である。又同九年には、相当の難工事とされた差出塔の山が切り下げられ、富岡倣明の設計に係る亀甲橋は明治十一年十一月盛大なる開橋成を挙げ、青梅街道が本町内を貫通し、明治初年迄雑木林の間に点在した農村はこゝに交通交易の中心地として発展する契機となつた。
東山梨郡役所の誘致新設、日下部警察署の設置、甲府裁判所日下部出張所の開設、郵便局・税務署・登記所・五カ村組合立日下部高等小学校等相次いで生れ、官公衙の衛の体をなし、加うるに銀行、会社、工場、劇場、学校等々の新設によつて、本郡中核地帯として相応しい発展を遂げた。
然るに、明治三十六年に中央線が交付まで開通して、日下部停車場が加納岩地域に設置され交易の機能形態が鉄道中心に移されて來るし、明治四十三年の晩雪によつて、小原の名物櫻並木は大折損し往事の面影を消失し、大正十五年には行政改革によって東山梨郡役所が廃止されるなど、発展を削ぐ悪條件が相ついで重なつた。
村勢漸やく衰退を予測されはじめたが、傳統の基盤の上に新生面を求めて昭和七年十二月一日町制を施行して、新機一転一大発展の基礎を築いたのである。
続いて道路網の整備拡充、教育第一を目標として小学校の現在地への移転新築拡張を以て、郷下にその偉容を誇示し・束山梨地方事務所、日下部保健所、日下部簡易裁判所等の誘致開設に成功し、大工場の新設、組合立中学校の設置等將來への発展の基礎は再び確立され、その飛躍的伸展が約束されるに至つた。
更に簡易交通機関としての乗合自動車は、現在町内を縦横に疾駆し、塩山線、諏訪線、西保線、水口線の要路である。
然し産業経済の基本となる中央線日下部駅は、加納岩町地域にあるので、町制施行以來塩山・日下部間に停留揚設置の運動が提起され、之が実現の可能性をもちながら、事変や戦争等の影響によつて見送りとなつていたが、昭和二十五年から之が設置の猛運動は再び国鉄当局に、向つて展開され、漸く実現への曙光を見るまでに進捗している。
更に隣接町村を合併しての都市計画案も認められてその緒についており、文化地区として明朗な地方都市出現へのコースを辿つている。
これが実現については、日下部・後屋敷地区及び加納岩地区の二つの都市計画が昭和二十五年に認可され、二十六年九月第一次測量を終つた。この計画は隣接加納岩地区の計画と同一歩調で進行しているので日下部・加納岩両町を中心として後屋敷・岩手・八幡・山梨・春日居の五カ村を包含し一都市出現も夢物柵ではない。先づ健全なる発達を計る爲め眞先に着手する道路網計画は次の通りである。
(一)日下都駅小原四辻間干三百メートルの現縣道(幅員六メートル)を二等大路第二類の十五メートルに拡張、なおアスファルトで鋪装する。
(二)日下部駅西から日本電化工場を通過亀甲座前へ達する幅員八メートル長さ千三百メートルの道路を新設する、工費一千万円。
(三)日下部駅前から日川村へ向け現在の石和・日下部縣道干六百メートルを二等大路第三類十一メートル幅員に拡張する
(四)加納岩税務署を起点に法蔵寺へ抜ける千メートルと下石森へ抜ける九百八十メートルの日下部下石森線は八メートル幅に拡張、昭和廿九年度に工費千五百万円で着工する。
(五)近く誕生をする日下都電車停留所附近、後屋敷踏切附近から豊後.新町を経て休息へ抜ける二千メートル道路を六メートル幅に拡張する。
(六)八幡僑から青梅街道へ出る二千メートル幅六メートルに拡張する。
観光施設としては、積翠寺と八幡を結ぶ道をはじめ、国宝窪八幡神社・差出磯.國宝清白寺・石森山・万力林・日下部遺跡・江曽原遺跡その他名勝史跡を連ね諸設備を整えて縣下有数の観光地たらんとしている。