第二編 自然と環境

 第三章 交通と通信


  第三節 通 信

 郵便の歴史をたどつて見ると、我が國に新式郵便が実施されたのが明治四年三月であり、本縣にはじめて郵便役所が置かれたのは明治五年七月一日であつたあ。本町は十八年八月一日に小原西一、三四一番地に郵便所が置かれてはじめて業務を開始したのであつた。その後十月に貯金事務を、二十一年五月為替事務を二十六年十一月電信事務を開始し、三十七年六月小原西九番地に移転し、次第に規模を拡張して今日に至つたのである。
 電話は明治三十九年十月本縣にはじめて開設され本町には大正八年七月開設され、当時加入数は二十八口、・昭和元年六十□、昭和十一年七十九口、現在は九十口となつた。その中本町の口数を部落別に見ると次のようになる。

  小原   七十二口
  八日市場  十六口
  七日市場   〇
  下丼尻    二口

 こゝにも農業本位の部落と商業中心地域との利用状況がはつきり現れている。

 日下部郵便局

 日下部郵便局は明治十八年一月一日創設された。創立の当初は局員五名で小原西、元メソジスト教会の隣り一三四一番地にあつた。ついで警察署西隣り七六二ノ二番地に移され、本町の発展と共にその規模に拡張されたが、ついに局舎の狭隘を告げるに至り、且つ明治三十六年日下部駅の開設と共にその仕事の性格上駅の近くを選び翌三十七年六月小原西九番地に移轉した。その後昭和三年十二月、旧建物を改造し、面目を新たにした局舎が出來上り町民に親しまれてきたが、本町の発展と共に益々その機構が重要性を帯びるに至つた爲、昭和二十五年十月一日、ついに韮崎局と共に普通局(昔の一二等局)に昇格するに至つた。又指定局として指定事務をも取扱うようになつた。ついで翌十一月には、電報電話局が分離独立し、九番地の建物は電報電話局に移され、尚郵便局は新たに小原西一八〇ノ二番地に総坪数一九五坪、予算四二八万円で局舎の建談に着手、昭和二十六年八月竣工した。

 郵便物取扱開始並びにその沿革
一、貯  金  明治十八年一月一日  創設
二、郵  便   同九月一日     開始
三、爲  替   同二十一年五月一日 同
四、郵便凾場   同六月二十五日   同
 小沢新左衛門(八日市場役場前)に初めてポスト設置さる。
五、小  包  明治二十六年五月一日 開始
六、電  信   同十一月十六日   同
 この期より名称が日下部郵便電信局となる。
七、局舎新築   同三十七年六月四日 落成
 小原西九番地に移り名称日下部郵便局に変る。
八、電  話  明治四十三年三月六日 開始
九、電話交換  大正七年八月二十六日 開始。
 この時より日下部に電話開通。
一〇、局舎改造 昭和三年十二月二日
 現電報電話局成る。
一一、普通局昇格 昭和二十五年十月一日
一二、指定局   同         管内十五局指定事務扱。
一三、電報電話局分離 同十一月十五日
一四、分課設置   昭和二十六年五月一日
一五、局舎新築    同八月二十五日  新築移轉
一六、集配の範囲の変遷
市内一区(日下部小原東、西の大部、七日市場)市内二区(日下部町小原西の一部、加納岩町上神内川、同下神内川の大部)市外一区(山梨村、八幡の一部)市外二区(後屋敷村、日下部町 下井尻、加納岩町、上石森、同大野、下神内川の一部)市外三区(岩手村、八幡村市川、同南北)市外四区(八幡村「前記を除く」)

 〔新しい機構〕
 新装成つた日下部郵便局は、現在定員四十三名、内部組織は次のようである。
庶務・会計課=人事・会計・給與・切手配給(以上東山梨郡各局の分も含む)厚生・文書・物品・局金
郵便課=國内及び、外國郵便物の引受配達、切手類の売捌。
貯金保険課=郵便貯金、振替貯金國内外国郵便為替・恩給年金の支拂・簡易保険・郵便年金事務・國庫金受入。

  歴代局長
根津寅吉(明治二一、一〇、四−明治四四、一二、二八)
中沢昌雄(明治四四、二六、二八−大正八、九、二二)三等局
古屋善晴(大正八、九、二−昭和二六、六、三〇)特定局・普通局
長田利学(昭和二六、七、一−)普通局

 日下部電報電話局

 昭和二十五年十一月十五日、日下部郵便局から分離独立した電報電話局は、電氣逓信省の所管に属し旧局舎をそのまゝ使用し、電報の受付、配達、通話の受付、電話交換、料金の収納事務等を行ない、いよいよ繁雑さを増した、電報電話の業務を担当している從業人員は二十二名である。
 今、昭和二十五年度集計による電報電話の状況を見ると左の如くである。
一、電話交換機数
 
市内
市外
 三台
 三台
一、電話加入者数
 
有料
無料
 三一
  五
一、年間通話数
 
市内
市外
 一、五八四、〇〇〇
   二七〇、七二〇
一、年間電報通数
 
発信
受信
 六〇〇〇件
 九〇三四件


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