水 底 の 翳 −3−

中澤 護人[なかざわもりと](1916〜2000)

1 中澤家の人々

中澤護人の写真
中澤護人
(朝日新聞による)

 以下に幾つかの論文、著作、訳書名を掲げる。
 「鉄の歴史」(ルードウイッヒ・ベック著、全17冊・索引2冊)「鋼の時代」(岩波新書)「日本の開明思想」「白峰三山」「国歌・国旗について」「家永三郎氏の内村鑑三論を駁す」「榎本武揚伝」「ベック博士、そしてベック将軍」「二宮尊徳再論」「アリストテレスを誤訳したか?」「鉄に学び、鉄に遊ぶ」…
 およそ80に達する中から任意に10余りを選んだ。
 総て、中澤護人が書き遺したものである。その学識の多彩さを予感させるが、彼の人生は、「疾風怒濤」予測を遥かに越えた80余年の歳月である。1997年、「題未定」なる自らを語った冊子(自家版)を作った。本稿は基本的にそれに依拠している。

 中澤護人は、1916(大正5)年7月27日、山梨県東山梨郡加納岩村(現山梨市)下神内川610番地に生まれた。父毅一、母春代の三男、春代は飯島信明(後述)の長女である。中澤家の家系の概要は、別記する。

 祖父徳兵衛(1857〜1937)は、下神内川村における「豪農」であった。山梨県においては、幕末・明治以降の養蚕業、製糸業の発展に呼応して地主制が一挙に拡大した。農民の8割が自・小作農または小作農民であり、小作地率は全国最上位 に近かった。中澤家は自作地ももつ中堅地主(所有農地約4.5ヘクタール)であった。染色業、運送業等も営み、地域の人望が厚かった。
 1877年、南巨摩都南部村にあった近藤喜則設立の「蒙軒学舎」にカナダ・メソジスト教会のC.S.イービーが招かれ、翌年には甲府に入った。81年までの布教活動のなかで山中笑、平岩宣保、結城無二三等の有能な牧師、伝道師が育てられ県内各地に「受洗」者が増えていった。
 徳兵衛は、結城が日下部村八日市場或いは八幡村に開いた聖書講義所に出席し、八幡村の飯島信明とともに山中笑によって受洗している。1889年、32歳である。土塚村(現一宮町)の古屋いちとは、その数年前に結婚していたと思われる。
 次男真二によると「祖父は43歳で亡くなり、父徳兵衛は13歳で名主の座についた。祖父に似て酒が強かったが、27、8歳で禁酒会の会員になり…」「政治や宗教に熱心で、鍬を持ったのを見たことがない」。90年に33歳で加納岩村長、続いて二か村連合村長に推され、94年に郡議会議員、さらに95年から4年間は県会議員となっている。当時、東山梨郡一帯では地域党派としての田辺派と公道会派が深刻な抗争を繰り返していた。93年1月の県治局長宛回答によれば「県下ニ於ケル党派ノ大イナルモノ東山梨郡ニ於ケル公道会派・田辺派…」とあり「公道会派ハ自ラ民党卜称シ自由主義ヲ持スルト極言シ過激ノ党派トナス。田辺派ナルモノハ七里村田辺有栄ナルモノ之レガ牛耳ヲ取り温和ノ主義ヲ取ルト称ス…」とされていた。徳兵衛は公道会に所属していた。84年から2期衆議院議員となる依田道長(山梨市)が公道会から推され自由党に所属したことからもこの会派の性格の大要を類推できる。
 この間、日下部教会の主要メンバーとしてキリスト教の普及、発展に大きく貢献した。毅一以下7人の子女、道夫を始めとする20人に近い孫の多くがキリスト教に関わりをもつにいたる。また創立された山梨英和女学校(1889)の維持・発展に新海栄太郎、浅尾長慶、根津嘉一郎等と共に尽力する。

駿河湾水産生物研究所の写真
駿河湾水産生物研究所(親族提供)

 徳兵衛の長男毅一は、旧制甲府中学校を1901年に卒業、旧制第一高等学校から東京帝国大学理学部に進んだ。水産資源の研究の日本的権威であり、1920年代後半に、静岡県蒲原海岸に私費で「駿河湾水産生物研究所」を設立し、駿河湾におけるさくら海老の生態、資源価値さらに深海生物の調査・研究にあたり学界および地元水産業界等から高い評価を受けた。その結果海洋生物学への関心が高かった昭和天皇に30年6月、沼津御用邸で「御進講」を行なった。
 旧制日川中学校の2年を終えた護人が、兄厚におくれて静岡県立富士中学校に転入学するのは、父、兄とともに静岡県蒲原で生活するためであった。
 毅一の次弟が真二である。日川中学校在学中16歳の時キリスト教に入信した。自身は信仰に熱心ではなかったという。旧制第一高等学校を経て東京帝国大学 工学部電気工学科を卒業する。
叔父中澤真二の写真 在京中は本郷教会に所属し海老名弾正や植村正久の知遇をえた。一高時代の寮(向が丘寮)の同室に菊地寛や橋本芳雄(後に「日鉄」常務)がいた。大学での直接の師は、鳳秀太郎(与謝野晶子の実兄)、卒業論文は「発電・送電の運転供給の継続」であり、東京電灯(現東京電力)入社後、郷里山梨の笛吹川第一発電所を始め東日本各地の水力発電所建設に携わった。
  尾瀬沼に発電用のダムを建設する計画に対して、綿密な降水量「計算」に基く反論を展開しその結果尾瀬の自然景観が今日まで保存されることとなった。百歳を越えてなお登山、スキー、ゴルフさらに木彫に挑んだ。
 護人には、この外に一人の伯母なお(大島)、一人の叔父省三、二人の叔母すえ(大木)と千代(長沢)がいる。

 護人は三男、それに弟と妹の五人兄弟である。長兄の道夫は日川中学校1928年卒。東京帝国大学法学部を卒えてNHK(日本放送協会)に入った。道夫は東大新聞の編集部にいたことがある。扇谷正造、田宮虎彦、杉浦明平、岡倉古志郎、花森安治等と一緒に仕事を楽しんだ。NHKの理事になったが40歳代で亡くなってしまった。道夫の妻千枝子は、東八代郡英村(現石和町)上平井の岩間是雄の次女である。

 次兄厚は、護人より先に日川中学から静岡の富士中学に転校したが、卒業は日川中学32年である。父毅一は、蒲原に自ら研究所を建てた後、しばらくはそこで単身研究に当っていた。「自分のために敷設されたようだ」と、開通 した(28年)身延線を利用して山梨・蒲原を往復した。母春代は未娘真知子の出産のためもあり、祖父母のいる故郷の家を守っていたが、真知子の成長につれて、度々蒲原の家に滞在して夫の研究生活を支えた。厚が、まず父の研究を助ける意味もあって父の許に移った。厚は、父の各地への調査に同行したり、水産動物の図録を描いたりして父を喜ばせた。戦中・戦後、下神内川の「中澤家」を守ったのは厚である。また日本共産党所属の市議会議員となり、さらに「道祖神の研究」等著書も残した。著名な宗教哲学者中澤新一の父でもある。

 弟謙四郎は日川中学を経て東京農業大学を卒業した。徴兵され中国に行った。ここで一つの事件が起こる。謙四郎は中国北部の小都市の駐屯地で夜間歩哨の任務に当たっていた。中国人の老人一人が結婚式の酒に酔って外出禁止令に反し街頭に彷徨い出た。歩哨兵はスパイの容疑者として逮捕する義務がある。逮捕されれば老人は拷問、処刑を免れない。謙四郎は、その老人を逃した。ところがその事が上官に知れ軍法会議にかけられた。その席で審問官に対し彼は「子どもの時、兄たちと日曜学校に通ったものでした。女の先生が話してくださった『汝の敵を愛しなさい』の言葉が心を打ちました。この言葉は自分の人生を支配し続けています」と言った。入営の朝、部落の人々の前で「中国に行ったら中国人を愛する日本人になります」と挨拶した自分に忠実だった。審問官は諒解した。
 晩年、八つ岳南麓でペンションを経営した謙四郎の静かな微笑を想い起こす旅人は数多い。

 妹真知子の夫が歴史学者網野善彦である。

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