ゲーム中に登場する戦友(一部)
バルタザール・ヴォル(1922-1996)
勲章:騎士鉄十字章
戦果:戦車100両以上(81両は砲手として)
1943年以降、東部戦線でヴィットマンの砲手を務めた。天才的な射撃の腕を持ち、ヴィットマンの戦果はこの人抜きには語れない。砲手は戦車長との連携が特に重要なため、操縦手や装填手などが変わっても、ヴォルはヴィットマンと戦うことが多かった。小柄で人懐っこい性格だったと伝えられている。ティーガー大隊の創設とともに戦車長になった。
ヘルムート・ヴェンドルフ(1920-1944)
勲章:騎士鉄十字章
戦果:戦車84両
ヴィットマンの突撃砲時代からの戦友の一人。ヴィットマンが大隊長になった時、他の部隊に転任していたヴェンドルフを呼び戻し、中隊長に任命するなど、最もヴィットマンが信頼していた人物の一人。性格はスポーツ好きの頼れる兄貴分といった感じだったようだ。西部戦線で行軍中に、シャーマン戦車の攻撃により戦死。
フランツ・シュタウデッガー(1921-1995)
勲章:騎士鉄十字章
戦果:戦車22両以上
ティーガー中隊の中で、最も早く騎士鉄十字章を授与された戦車長。
1両で50両近いT-34を相手にしたり、夜間行軍中に手榴弾でT-34を続けて2両撃破したりと豪快なエピソードが多い。
アルフレート・ギュンター(1917-1944)
勲章:騎士鉄十字章
ヴィットマンの古い戦友。突撃砲時代、ヴィットマンの砲手を務めていた。ティーガー中隊に移ったヴィットマンと異なり、そのまま突撃砲大隊に残り騎士鉄十字章を得た。第1SS装甲師団の創設とともにティーガー大隊に移ったが、ノルマンディーで前線に着く前に航空攻撃を受け戦死。ティーガー戦車での武勇は残せなかった。
ハインツ・クリング(1913-1951)
勲章:騎士鉄十字章
戦果:戦車51両以上
ティーガー中隊の中隊長を務めた人物。昔ながらの前線将校で、しばしば凄まじい怒鳴り声で中隊を引き締めていたという。当時クリングの配下には、ヴィットマン、シュタウデッガー、ヴォル、ヴェンドルフなど歴戦の勇士が揃っていた。ティーガー大隊創設後は、別の部隊に配属され、ヴィットマン達とあまり関わっていない。
カールハインツ・ヴァルムブルン(1925-?)
戦果: 戦車57両(44両は砲手として)
ヴォルと並ぶ凄腕の砲手。ティーガー大隊の創設とともに、19歳で戦車長になった。
ゲオルグ・レッチュ(1914-?)
ティーガー戦車の開発にも参加した自動車整備工。戦車の機構に詳しかったため、戦友からは「戦車の大将」と呼ばれていた。ただしLAH内では整備士ではなく戦車長として勤め、ある程度の成果をあげている。
ハンス・ヘルト(?-1943)
形式ばった態度をいつも崩さない、お固い人物と伝えられている。
ブルーシロフ攻防戦で、コマンダーハッチに直撃弾を受け戦死。
エドゥアルト・カリノフスキー
元ビール醸造職人。戦争が始まると志願し、歩兵となる。いくつかの部隊を渡り歩き、士官学校に通った後、ティーガー大隊の大隊副官を務める。
ヴァルター・ハーン
志願する前は公務員だった。カリノフスキーと同様、歩兵として戦った後、士官学校を卒業し、ティーガー大隊に加わった。年配だった事もあり、部下から「親父さん」と慕われていた。
フリッツ・ハルテル(?-1944)
両親が経営する農場で働いた後、勤労奉仕義勇軍を経て、ティーガー中隊に配属された。ベルディチェフ周辺で行方不明になる。一説によると後方地帯に向かう時、乗っていた飛行機が墜落したとされる。
クルト・クレーバー(?-1944)
空軍出身という変わった経歴を持つ戦車長。戦車に直撃弾を受け砲塔から吹き飛ばされたが、無傷で帰ってきたという逸話を持つ。ソ連兵の防寒帽をかぶっていたため、ヴィットマンに「いつか味方に撃たれるぞ!」と注意されたエピソードも残っている。西部戦線で航空攻撃により戦死。
ハンス・ヘフリンガー
ティーガー大隊第二中隊の先任中隊下士官。鬼軍曹的な人物だったのか、カリノフスキーとハーンが、ヘフリンガーに怒鳴られるエピソードが残っている。
ハンネス・フィリプセン(1921-1944)
ヴィットマンの突撃砲時代からの戦友。公正な態度と強い戦友愛から、部隊内で人気があった将校。第三次ハリコフ攻防戦で重症を負い後遺症に苦しんだ。ヴィレル・ボカージュの戦いの数日後、対戦車砲により戦死。
ハノ・ラーシュ
ティーガー大隊第三中隊に中隊長として就任したが、就任時はティーガー戦車での戦闘経験はなかった。ティーガー大隊では教育もかねて、熟練戦車長に混じって、経験が浅い車長も混ぜられていた。絵が得意だったと伝えられている。
ロルフ・メービウス(1914-?)
勲章:ドイツ十字章金章
LAHの対空砲部隊から、ティーガー大隊に移籍した中隊長。ティーガー戦車での戦闘経験はなかったが、戦車長としても大きな戦果をあげた。
ハインツ・ヴェスターンハーゲン(1911-1945)
船乗り、農夫、工員、一般SS、保安諜報部、LHA突撃砲大隊などの経歴を経て、ティーガー大隊の大隊長に就任した。突撃砲大隊出身のヴェスターンハーゲンの意向で、ティーガー大隊には突撃砲大隊出身者が多く集められた。1945年東部戦線で戦死。
レットリンガー
突撃砲時代に、ヴィットマンが所属していた小隊の小隊長を務めていた。ティーガー大隊には移籍していない。
ゲオルグ・ハントゥシュ
自動車工場の工員、迫撃砲員、整備士などを経て、ティーガー大隊に所属した戦車長。
フリッツ・シュタム
高校卒業後、LAHに志願。東部戦線で装甲擲弾兵として戦う。その後士官学校を経てティーガー大隊に所属。
ロルフ・ヘンニゲス(1921-?)
高校卒業後、武装SSに志願。運転兵、分隊長などを経てSS工学校に送られる。整備士になる予定だったのだが、ドイツが総力戦体制に入ると工学校を離れた。その後いくつかの訓練課程を経て、ティーガー大隊に所属する。
マックス・ゲルゲンス(1914-?)
総統随伴警備隊などで勤務した後、LAH師団長付きの運転手になる。その後ヴェスターンハーゲンに誘われ、ティーガー大隊に移った。
トーマス・アンゼルグルーバー(1905-?)
ヴィットマンの突撃砲時代からの戦友。クルスクの戦いでは、V号突撃砲で18門の対戦車砲と8両のT-34を撃破している。その後ヴェスターンハーゲンにより、ティーガー大隊に移された。1944年時点ですでに39歳と高齢の戦車長だが、並外れて勇敢だったと言われている。
ユルゲン・ヴェッセル(1920-?)
歩兵として戦った後、士官学校を経てティーガー大隊に所属。
ハインツ・ベルベ(1916-?)
学校卒業後、農夫、一般SSなどの経歴を経て、LAH突撃砲中隊に所属。ヴィットマンの古くからの戦友である。第1SS装甲師団の創設とともにティーガー大隊に移った。ティーガー大隊にはベルベの兄弟が他にも2人おり「ティーガー大隊のベルベ三兄弟」と呼ばれていた。ちなみにベルベには兄弟以外に、姉妹が7人いたという。